エヴァのどろどろになれば簡単なんだけどねぇ

交換可能消費財が豊富であることは各個人には交換不可能財を確かに増やしたのだが、しかし、その不可能性もまた『価値』の文脈で語られてしまう(100億積まれても売らない、とかな)。恐らくはここにこそ直感的『交換できないものなどない』という発想の因があると見るべきだろう。
この価値という発想を基数的に捉える時『最大多数の最大幸福』のようなベンサムとかその辺がのたまってそうな理屈が出てくる。基数的というのは前も云った気もするが、つまり、数量化が本来不可能なものを仮設的に数量化するという事だ(例えば満足量、幸福量とかな)。しかし人はそんな風にデジタルに出来ていないから『序数的(数量化せずAよりBが好きと分かれば十分みたいな感じ)』に考えるべきだなんて理屈も出てくる。それは単純化にとても都合が悪いのだが――それ以上に人間の意識的な場に注目し過ぎ基礎付け過ぎているのではないかと思うのだ。
人間のいい加減さは意識においてこそ顕在し、そして正確さは無意識において顕在する。生物の本来の目的、すなわち生存、子孫繁栄というハード的(生物的)目的がソフト的(意識的)受動になって、ハード的手段である糧を得る方法が時にソフト的目的に摩り替わる人間ならではの面白さだ。
ともあれ、幸福やら満足やらを数量化し設定せずともよいのではないか。ああ、つまりそんな主体的な言葉で括るものではなかろと言いたいのだ、というか正直言語化は厳しいだろうとさえ思う。
――とまあ、勉強途中の思いつきだからこの辺りについてなんかカッコイイ解決やら脱臼があるやもしれんのだけどな。