例えば

『どうせ私の気持ちなんて誰にもわかりっこない』とか云う。
云う人間にとっては極めてパフォーマティブだが、すれっからしの人間からすればそれはコンスタティブである。
……と思っていた(すれっからしとしては)
が、しかし、『どうせ私の気持ちなんて誰にも分からない』よりも然るべきルールが共有されたならば『実は私の気持ちは誰にも分かってしまう』という事の方が遥かに絶望的ではなかろうか。
キノの旅で、心が通じ合ってしまい結局皆離れて各々暮らす事になった国の話があった。しかし、冷静に考えれば始めから互いの心に醜がある事くらいは始めから分かっているわけで、そんな程度の事で人間は別々に暮らしたりは出来ないのではなかろうか?
真に恐いのは科学的であれなんであれ、根拠を信じる事だ。根拠には、どうせ根拠など存在しないのだから。常にいつも必ず仮説だ。心が通じ合ったくらいで、心が通じ合ったなどと信じられるだろうか? そして、僕は思えない。
だから僕は『どうせ僕の気持ちなど誰にだって分かる』と云う。分かって欲しいと分かって欲しくない事の境界的文学的絶望と希望はそこにはない。ただただ事実として分かられ得る。
然るべき(ただし根拠はない)ルールによってそれは前提としてそこにある。