比喩

の中で。擬人法ってのがあります。しらんやついないだろーけど。これ、小学校のいつ頃習ったかはさっぱり覚えてないんだけどしかし、習った当時の僕はそれがやけに印象的に見えたのですよ。
暗喩、直喩とか比喩のツリー構造はどうでも良くって。
どうして擬人法なんつー特別枠があるんだろう? と。
そして話は飛ぶんだけど
『神を信じる』
『神は無慈悲だ』
『神さまが見てる』
等にある神の慣習的擬人化が僕は気持ち悪くて気持ち悪くて仕方なかったのですね。えーっと、神さまって人ですか? みたいな。無慈悲な可能性は高いよね、ていうか、人じゃないのになんで感情単語つかうねんみたいな。あ、幼少時の僕が想定する神さまは『神という言葉に象徴されるわけわからんなにか』であってアッラーでもゴッドでも天でも八百万でもないっつー前提を云い忘れてた(とはいえ体験としての神を一切欠いてなお、宗教に熱心ではない両親を持った者が持つ標準的な神という観念だと思う)。
ともあれここから。神話の本質をかたどる側面へ漸近可能だったんだけど、残念なことにそれをしなかったのなー。
神は自らの姿に似せて人を創られたそうだが、何故そういう神話形態をとったのかという発想がなかったのが今でも悔やまれてならない。
どうでもいいけどフランスの映画監督で無神論者式宗教観(神という言葉に象徴されるわけわからんなにか重要視と言い換えてもよし)を持って、ついでに買春(男)しそこなってその少年に殺されたのって誰だったっけ?