死は結果の停滞です

とかいまさら思った、寝る前に。

場面は決闘。手に持つ得物は剣と剣。勝負は生死をも分ける。勝者が生き、敗者は死ぬる。

――死なない限りは負けじゃない――結構聞くセリフだと思う。とりあえずPhantom of infernoにもYU-NOにも出てた(どっちも広義にギャルゲ)。
二つのゲームで読むべき文脈上の意味は、死んだら敗者になるということではなく、死んだら敗者という観念を覆すべき実行力を失うという事だ(でなければ、死者は凡て敗者ってことになる……まあ、これは人類-歴史の対立項では見逃せない観念だが)。
決闘での死はただの結果だが、それは<敗北という結果を停滞させる>結果なのだ。覆す術は残っていない。ゆえに<死んだから敗者>ではなく、<敗者の状態で死>なのである。

これまでは前置き。
で、思ったのは、『殺す』って全然ダメだよねって話。
勿論、人道的にって意味じゃなくて。
死は伊達に20万年の歴史を持つ観念じゃない。誰だってとは思わないが死は多くの人にとって恐れるべき対象だろう。そしてだからこそ、死に処するためのシステムは様々なカタチで模索されてきたし、てにおはを変えてこれからも模索され続けるだろう。
しかし、死は観念を覆すべき実行力の喪失でもあるのだ。だから、苦しめようと思った相手を殺せばもう苦しめる事は出来ない。
また、殺される事によって完成される観念というのも往々にしてあるのだ。許してくれと謝罪し免罪を求める人間を殺す事はまだしも、許さないでくれと謝罪し裁かれない事こそ彼の人にとって罰とする人間を殺す事は逆説的だが実はその人の望む救済でもあるのだ(我望む、ゆえに望まないというわけだ)、またどちらにせよ謝罪し続ける両者の人間にとって殺される事は楽な道なのだ(ゆえにそれをわざと与えるという事もあるいはアリかもしれない。許してくれと発した声には無自覚があり、許さないでくれと発した声は自己欺瞞を自覚したという自己欺瞞があり。殺して溜飲が下がるのは前者か……)。
両者の根本的な欺瞞はまさに死の観念を『観念』ではなく『現実』と捉える自己欺瞞だ。これこそ多分、誰もがかかる魔法なのだろうが。だがそんな魔法から演繹した観念の構成物質になるのは正直僕はごめんだ。
ここで一言『人の嫌がる事は進んでやりなさい』
……ここでこれを出した事にアマノジャクを感じただけで終わるのもまたアリ