観念の外部を僭称してさえも

言葉を使って本だけ読んで、外に出ないでひきこもり。
「そういうの良くないよ」って云ってもひきこもりに意味はなく。競りたてる焦燥感に流されるように自分の世界に閉じこもっている。『書を捨てよ町にでよう』って寺山修司で皮肉られて、実際に街に出ても街を観念にして捉えてしまったら意味は無く。そんなに自分が大事か? 僕は大事だ!
ああ、まあひきこもりの弁護をしているわけじゃなく。
外部を観念化してしまったら前期ヴィトゲンシュタイン的世界に行くまではあと一歩なわけで(って云うほど一歩でもないです)
しかし、それでも外部という観念を僭称しつつもひきこもりを外に引っ張り出すっていうのは結構有効な事だと思っているのです。頭の中も頭の外もどっちも使わなきゃ錆びますから、電化製品みたく。って、別に俺が云わなくても良いことなんだけどね。なんかこう、空とか青かったし。