逃げつづけるオタク屋にでもなろうというのか

いわゆるオタクと称される世代(第1、第2、第3を問わず)は観念というものが基本的にまやかしだと肌で知っている世代と云える気がする(そしてそうであるがゆえにそれを積極的に求めてさえいる)。いや、むしろその観念をヴァーチャルに自覚的に演出していたようにさえ思う。筋肉少女帯の『タチムカウ』なんかはその構成にすら自覚的だったと思う。
なにもかもが崩れ亡くなった廃墟からオタクたちはなにかを組み上げなければならなかった。だが、それは観念の発生史から連綿と続く20万年の歴史とは全く別のものを創れと云われているに等しい。
少なくとも組み上げられ崩れ落ちたあの観念の歴史を使うことは出来ない。
だがこれまで観念の歴史の終焉を間近で見ておきながらその枠組みに慣れすぎているが故に新たなものは創れず、ただ残ったモエカスを組み合わせている段階に終始した。
そこで逃げ道はいくつか用意され、それは現在も幾つか見ることが出来るわけだが。
せめて無自覚に逃避しつづけてはいけない