いつか、届く、あの空に。

コンプ。面白かった。
色々考える事があったので、ちょっと書いてみる。

1,ギャルゲー的日常の性質
序破急、起承転結、筋、どう呼んでも良いが、これがひとまず物語を作る単線形だとしよう。そしてその中にギャルゲーをギャルゲー足らしめるギャルゲー的『日常』があるとしよう。つまり、『日常』は本来物語に添えられた刺身のツマみたいなものとしてあったとする。
それが膨張したとき、あるいはメインディッシュと意志する事こそギャルゲーを成立させたする。
そうしたときようやく物語と『日常』は敵となる。つまり、主客が逆転したならば。端役が主役を食い殺すような関係となったならば。だから『日常』と筋を少々うっとおしい方程式の絡まりとして描かなければギャルゲーは面白くならない(フェイト、水月、クロチャン)。例えば『日常』だけでは退屈になり(アンダーバーサマー)『筋』だけではもはやギャルゲーではない(菅野ひろゆきの作品は年月を経る毎にギャルゲーでなくなるw)

2,物語とギャルゲー的日常は並び立つか?
タイトロープの上を渡るバランスに細心の注意を払い、成立する。ただし、並び立つが実は両者は別個のものだ。一つの作品として組み上げられたとき、ようやくそれは同じものとして処理される。
が、処理能力、読み手如何によって綻びる。筋が上手く行っていれば寒いジョークも笑えるし、下手に行ってれば寒くないジョークも寒くなる。ちなみに、僕は『いつか、届く、あの空に。』のジョークは結構面白かったと思う。ともあれ、この意味で、やはり別個ではない。

3,
ここに、凡てのギャルゲーを『日常』と筋の方程式として俯瞰する視線があり得るだろう。
その解は『日常』を物語においてどのような位置にさせるかによって揺らぐだろう。


……うん、実は『いつか、届く、あの空に。』すごく面白いとは思えなかったんだよね。ギャルゲー的『日常』は及第というか、おもろい。ただ筋は現代にやる事なのかな? 街や家に縛られた主体ってもう扱うにはカビが生えすぎている。ただ、ギャルゲー的『女の子』自体がそういう制度的なものだから相性は良いんだけどさ。その意味でもギャルゲーってどうなのかという二重の意味で課題というか、不可能性があるのかもしれんね