まわりをくだらねえくだらねえ本気で言うヤツはしかし、その実自分自身がそのくだらなさと同格かあるいはそれ以下であるという発想をいつかする日がくる。『雫』の主人公みたいなものだ。なまじ能力が上の上だったら『まわりはくだらない』を押し通せる間違いを犯せるだろうし、上の下なら押し通せないから論理的自己弁護、論理的脱臼、あるいはポジティブチックな開き直りを図る事になるだろう。
この発想と連結しているのはお馴染みのヒエラルキーであり、それを裏から支える『価値』という発想であり、つまり『人生の価値、意味』であり。『俺の人生って意味ないんじゃね?』という事実を疑問形にしてしまう憂鬱だ。
そもそもまわりをくだらないという発想自体まわりを前提にしているっつー事にすら気づかなかったり。そしてまわりがくだらない事の証明はこれから自分がビッグになる(死語だな……)という事だったり。そして夢破れれば自分を受け入れなかった側が『くだらない』事になったり。……なかなか忙しいものだな。
つーか、この発想自体がそれこそ有り触れていて『くだらない』と分かっているだろうに。
それでもそんな言葉にしてしまうなら、<どこまでも三流悲劇、ただし自分の一生を遣って! みたいな>である。悲劇未満なんじゃないか? というツッコミは不可。