ラベリング、そしてテレテレ

ラベリング。
意味もあるし価値もある。ただくだらないこともまた確か。
無論、便利だ。
あいつは偉い。
あいつはバカだ。
あいつはオタク。
あいつは一般。
尾崎紅葉は擬古典主義。
etc...
孤独な群衆。こう云った社会学者は誰だったか。ともあれ孤独な群衆は繋がろうとする。そして共通項が多いことはそのまま繋がりやすさに繋がる。
だからこそ、それだからこそ、このラベリングは任意にしろ恣意にしろ便宜的なモノで、常に仮設されたものとして扱うべきなのだが。しかし、ほとんどの人はその事を忘れている。
そして、その忘れている人間が必ず持ち出すモノ、それこそがテリトリー、自らの領域だ。
僕が自分をさくっとラベリングすれば『サブカル系オタク、ただし深度はそれほどでもない。かるーく入り口メジャー指向』そんな感じだ。
だが、さっきも云ったとおりラベリングは便宜的な仮設的なモノで、そのラベリングに拘ってしまったなら、便宜性は崩れ可能性は固着する。……学閥に入って身動きとれないがんじがらめの哀しい学徒ならともかく、自分から不自由になってどうするというのか?
だから自分でオタクを名乗るのは問題ない、勘違いだろうがなんだろうが、それは所詮本質的には足場なのだから。だからこそ、照れ隠しとして自分を偽オタクと云ってみたり、「オタクって云えるほどディープじゃない」なんて発言をするのはそれこそバカバカしい。
で、一言。
「貴方は貴方から生まれ、貴方は貴方になった。そして、どこへもいかない」(『有限と微少のパン』より)