ジガってカタカナで書くとちょっと珍しい登場人物の名前のようだ

二葉亭四迷浮雲』三篇で文三が獲得し自らに定着させた自我、内面と外面という構造を持つ近代的自我。それはこと日本においては明治以降の欧化政策によって得たものであることは、この日記でも……あれ、触れてないかも。
ともあれ、『内面』『外面』という構造は自然的に備わっているものではない。
現代日本においては日常的に散見できる『内面』と『外面』。
明治知識人たちは書物から得た。
現代に生きる人々はどの段階で獲得するのか。
それを理解する一助として『恋愛』という観念を取り出せる。これはきっぱりと近代的自我の産物だからだ。内部に作り上げた外面を見ることで対象化される恋愛相手。
この辺りは『坊ちゃん』を読めば分かると思う。
とすれば主に中学、高校で獲得される観念であるだろう『恋愛』。近代的自我は少なくともそのころには形成されるのか。しかし、言葉は個人の『モノ』化し定着し違うものを同一にする単純化の作用がある。ただの好意も『恋愛』に括られうるし、肉欲とて『恋愛』に括られうる。そもそも極めて皮相的『恋愛』を被せた反省が『浮雲』で語られたことを忘れてはならない。