猫耳はいわば宝具だ

またなんか電波が届いた(脳みそにナー)
というか、実は結構まともな事を云おうとしている。
まず、猫耳ってのは萌えパーツ。
そして、萌えパーツはそれ単体で少なくとも序数的比較対象になり得る。訳せば、
猫耳よりはカチューシャが萌える」という発言に齟齬はない、ということね。
しかし、この発言をしたA氏が「キャラクタBにはカチューシャをつけるより、猫耳のほうが萌える」と発言してもこれまた齟齬しない(なお、似合う似合わないという概念とは置換できない事に注意が必要だ。それはでじ子とかを見れば分かると思う)。
しかし「猫耳よりはカチューシャが萌える」という発言自体、そもそも真の意味での物体に対してのそれではなく、キャラクタから抽出したイメージが混合している事を忘れてはいけないわけで。
だとすれば平均なんてありもしない萌えに近づこうとするなら、それは作品の取捨選択が大事になる。余計な作品を見過ぎると自らの萌え嗜好をアウトサイダーとして固着してしまう(なお発祥時から萌えはかなり変遷している。言葉として自然発生させた集合(people)ではない集合がこの言葉を使うからだ)。勿論、これもバランス感覚(あるいはロジック上の理解)さえ優れていれば全く問題ないのだが。つまり、このバランス感覚のない人間が年をとったとき『時代遅れ』扱いされるわけだ。勿論『萌え』なんかそれこそどうでもいいわけだが、ごり押しよりはクレバーに生きれ、そんな感じ。